シティボーイズミックス PRESENTS 「西瓜割の棒・・・」感想文

シティボーイズミックス PRESENTS
「西瓜割の棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を」
〔観劇日〕
東京:世田谷パブリックシアター 4/6(土)昼&4/7(日)昼&4/13(土)昼
大阪:シアター・ドラマシティ 4/19(金)夜
北九州:北九州芸術劇場中劇場 5/5(日)昼
目隠しをした男が棒を持って割るべきスイカを探している
しかし、スイカを見つけた時には男の手には棒もなく
その顔には目隠しもない
長い間求め続けたスイカを目の前にした男は
もうスイカを割ることができない
スイカが見えてしまった時点で、男のスイカ割りは非現実となる

今回、宮沢章夫さんの作・演出と決まった時、どうしてもラジカル・ガジベリビンバ・システムを観た者としては興奮を抑えることのできない感情を覚えました。
ラジカル再結成だ!(竹中さんはいないけれど)
しかし、ラジカルももう随分と昔のことです。
宮沢さんは「ラジカルをまた見せてもらえる」といった期待を満たすようなものを、果たして今回もってくるであろうか?裏切るか、全く違う世界に於けるシティボーイズを見せてくれるのか。
色々な想いを胸に「西瓜」初見。
ラジカルの全てを鮮明に覚えているわけではないのですが、一部昔観たものと同じスケッチ(←ああこの言い方に慣れませんがこう表現してみます・・・)が目の前で展開された。「え?これ観たことあるよ??」というデジャヴに驚いた。
そして観劇後、主にツイッターで検索し、色々な方に伺うことでやはり一部が再演されたのだということがわかった。
(※私が観たのは多分「コズミックダンスへの招待・RE-MIX」ではないかと思われますが、この辺りは5/25の「しげるの素」で改めて斉木さんに伺えたらと思っております)
そっか、再演を乗っけたか!と嬉しい誤算。しかしそれは当時でも今でも変わらず客に投げることのできるスケッチ。再演というよりは、今見せたらどうよ?といった感じを受けたのですが、どうでしょう。
再演はその部分だけかどうかも不明ですが、客が出にくい状況になってしまうという「喫茶店」というスケッチ。
ラジカルで観た当時、障がい者役の人が現れた途端に、え!と私は固まった。要は差別をしてはいけないと意識しすぎる周囲の人々のとんちんかんな行動を笑うものなのでありますが、当時の私にはそこまで頭が回らず、いいの?こんなこと・・・とひたすら思うばかり、そして記憶違いかもしれないけれど、舞台上の店内からまるでフロアが繋がっているかのように客席にも同様な緊張感が漂って、場内一致で爆笑、という空気ではなかったと思います。笑った覚えがある、という方々もいらっしゃいますので、それぞれ感じ方が割れるものであったなあとの印象。でも今回は自分も笑ったし、会場も日によっては満場大体笑っている日もあった。その笑いで、観る側の福祉に対する心構えの推移みたいなものも感じた。いとうさん演じるところのあの女性のような人間が、普通の存在となりつつあるのかもしれない、と感じたりも。差別をしてはいけないと感じるあまりに妙なことになるという笑いの構造が、やっとわかる年齢になったのか、時代がそういうことになってきたのか、このスケッチには色々なことを考えさせられましたねぇ。
(ちなみに宮沢さん著書「東京大学「80年代地下文化論」講義」の「第8回 由利徹、モンティ・パイソン、ラジカル・ガジベリビンバ・システム」の章に「喫茶店」スケッチについての解説が載っています)
ラジカルの垢抜けた感じに、更に他で観ている洗練された現代演劇がシティボーイズライブにも持ち込まれたな、全体を見終わった印象としてはそんな感じでした。見事に1本の‘作品’になっているな、と。いつぞやの終演後トークにてきたろうさんが「きどりやがってってお客は思っているのではないか」と照れていらっしゃったように、いや今回のシティボーイズミックスは、ここ数年のものとは全く違う別物として、妙に新鮮に目に映るものでありました。
三木作品からもしかしたら「らしさ」として続けられてきたのかもしれないオープニング・エンディング映像や幕間映像は無し。今回の映像の投影の仕方は額縁内全体を彩るものでこれまであまり見なかったものでした。音楽も、突出したメインテーマがあるわけでもなく、映像・音楽ともに、かっちりと芝居進行にはまったものが用意されました。こういうのもいいじゃない、と、新しい感覚に嬉しく酔った初見となりました。
現代版ラジカル風味のシティボーイズミックスはとてもよかったな、そう満足しました。
そして少し後悔しました。
私は「砂漠監視隊」にてラジカルが終了した後、宮沢さんのお仕事を一切観なくなりました。
正直第2次ラジカル期に作られた「ナベナベ・フェヌア」も興味なかった。
もっと正直に言ってしまうと、あまり宮沢さんの世界が理解できていなかった。なのでラジカルの作品をまるっと好きであったかというと、そうでもなかった。
ただシティボーイズが好きで、ラジカルメンバーが好きで、とにかくこの人たちに着いていきたくて、分かろうが分かるまいがとにかく着いていっていた、それが正直なところでありました。
例えば「コズミックダンスへの招待・RE-MIX」のパンフレットを見ると<「RGSの素・162」キミはいくつわかるかな?>というラジカルの作品の素となった項目がずらりとならんでいます。それを今改めて見ても・・・私にとっては「西瓜」のきたろうさんと大竹さんのセリフじゃないけれど、「なに言ってるか、ぜっんぜんわかんないよ!」となってしまうわけです。理解以前に自分に興味のないものがずらずらと並んでいる。例えば私はSFが苦手です。しかしラジカルといえばSFといった感覚があって、それが正直面白く感じられなかった。かっちりSFをやるわけではないので(って、その辺も理解していませんが・・・)、その風味的なものに「合わないな~」と感じていただけなのですが。
でも。
今現在まだYouTubeにあがっている「未知の贈りもの」を観ると、このパラレルワールドの話がとても面白いのですよね。でも観た当時の記憶があまりない。多分理解していなかったからだと思われ。
20歳そこそこの頃に理解できなかっただけで、今観たら面白い、ということは、歳を重ねながら様々な舞台や小説などを見聞して沢山の方向に興味のアンテナが伸びていく中で、その途上で継続して宮沢さんの作品を観ていれば、その世界をも十分興味を持って観ることができたのではないか、そういうことではなかったか?
そんな後悔の念が湧いたのでありました。
まあ、自分にとっての‘その後の宮沢さん’についてはこれからでも辿ることはできるので、過去のDVDなど機会があったら観ようと思います。
そして、今回の「西瓜」、初見では、とても演劇的だなと思いました。
しかし、しばらく時間を置いて考えて。
果たしてそうか?と自問自答。(じゃあ演劇って何よ、と自分に問うてみたり)
ラジカルもこれまでのシティボーイズライブも、演劇のようなコントのような、しかし演劇とかコントとか決まった言葉で語る必要のないものという認識でずっと客席に座ってきました。
今回見せてもらったものも、過去から連綿と続く意識と同様、やはり特に演劇的なものだとか宮沢さんがコントに帰ってきたとか、無理に決める必要のない世界ではなかったか、そう思います。
とにかく憧れのおじさんお兄さんたちは今回も、こういうのが好きだ!というものを見せてくれた、そんな感覚があります。非常に幸福な感覚。無理に解釈しようとすれば「意味なんてないよ~ん」と返されそうで、それもまた幸せな感覚。
登場人物たちはあるどこかの世界を漂い続け、そこから出ること、立ち去ること、別の世界へ行くことが許されていないようだ。
それはシティボーイズや中村有志やいとうせいこうや、ずっと一緒にやってきた仲間たちがもうそこから立ち去れず、また立ち去る必要もなく、そこに居続ける、という世界だとしたら。
そんな痛い妄想で私は心を満たしました。
更にラジカルな面々にとりつかれた我々客もこの世界から出ることなく、時空を超えて彼らをずっと見続けているのだ、更に痛々しいそんな妄想をも自分に許してみたり。
初見から大千秋楽まで様々な想像妄想が頭を埋め尽くした日々。
幸せでした。
そして大楽が終わって思った。
次は誰と何をやりますか?
やりきった人々を見て爽やかな気分となり、そんな問いが明るく飛び出し、私の中の「西瓜」は一旦落ち着きました。
これからもその世界について考え続けるけどね。
非常に長い感想文。
お読み頂きありがとうございました!


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