多摩川に住む人々と猫と

NHK教育のETV特集『ひとりと一匹たち 多摩川・河川敷の物語』を見た。

ホームレス、捨てられた猫、犬。
こうしたことについては巡る思いが多すぎて重すぎて、公の場でこうして文字にすることは非常に躊躇われる。人間という生き物が存在する分だけ、考えていることが個別に様々あって、どうしたって私の意見なんかまともな風に乗って行ってはくれないと思ってしまっているからだ。
でも、ちょっと書いてみる。

取材をしたNHKの担当者さんのナレーションの中に予てから私も思っていたことを含む下りがあった。

ホームレスの人々は「自己責任」という言葉を使う。自分のせいでこんな暮らしをしていると。しかしその境遇を尋ねれば決して自分だけのせいでない過酷な境遇の人もいる。それでも「自己責任」という表現をする。何故そう言わざるを得ないところにまで、この人たちは追い詰められなければならないのか。

派遣切りにあって路頭に迷うまだ若い人々をニュースで見て疑問に思ったことがある。この人たちに帰る実家は無いのだろうか?仕事が無くても、一時的であれば、実家に帰って次に備えればいいのではないか?しかし若い派遣労働者のインタビューでも天涯孤独で帰る家の無い人がいることを知った。別の仕事をしたくても、保証人が居なくてはまともに仕事に就けないから、保証人が居ない自分には正社員(あるいはそれに準ずる就業形態)への就業は難しいという話も聞いた。

人生、どんな条件の下でどんなに計画的にどんなに真面目に生きていても、思いもしない高波、嵐、天変地異ですべてを失うこともある。それは実際に経験した者でなければ想像もつかないことであろう。

こういう光景を垣間見た時、偶々大丈夫な我が身を高みに置いて、自業自得でしょ、とさらっと片付けてしまうような人間には決してなりたくないし、元々が弱い人間である自分には高いところから物事を見る態度はどうにもできることではない。

こうした方が良いとかああするべきだとか、そんなことを具体的には書きません。
この記述で伝わってほしいのは、弱者の存在や言い分を一蹴する社会のぞんざいさへの懸念です。

みんなに余裕が無いのはわかっている。自分にも余裕が無い。しかし、物事の深意を汲む、推し量る、その姿勢を持つことができれば、社会の空気が少しだけでも緩むかもしれない。そこに無い希望とやらを少しは生み出せるかもしれない。

捨てられる犬や猫に関してはストレートな思いは更に差し控えますが。
一言だけ。

自然淘汰と殺処分はイコールではない。

これに関しては自分にもできることがあればと日々思っていくことであります。
この番組を見て、もうひとつ思ったことがあります。人も犬も猫も、一見弱者に見えても実は独自の力がある。ただ力を発揮する機会がないだけで独自の能力を持っているのです。

飼い主を失った犬。とても人懐っこいその犬は老人介護施設で飼われることになったそうだ。飼い主や支援してくれた人々の愛情を一身に受けたこのコはきっと施設のご老人たちにお返しをしていくだろう。

猫たちは何の仕事ができるわけではないが、面倒を見てくれるおじさんたちの癒しの存在になっている。犬や猫たちに愛という感覚を与えてもらったおじさんもいる。

弱い者にしか弱い立場の気持ちはわからない?
人間は生きていく上で誰しも一度は弱い気持ちになったことがあるはず。
何の結果を生むことができなくても、私は‘推し量る’という姿勢を持ち続けて行ければと思っているのです。

こんな長いつぶやきを読んで頂いてありがとうございました。

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