2010/11/15(月)19:00開演 於:銀河劇場
本多で1回観ることができたのですが、体調がいまいちで観劇後よく憶えていない部分があったり、セリフがいまひとつ届いてこなかったこともあり、再度の観劇は嬉しく有難かったです。
感想文はどうしてもネタばれを含んでしまいます。
ですので、まだ観ていない方は申し訳ありませんが回れ右!で回避をお願い致します。→この表現、どなたかが使っていて気に入ったのでマネさせて頂きます ^ ^
正直な感想を書こうと思います。
以下、ネタばれ含みます。
まず最初に思ったのが「TAKEOFF」に似ているな、でした。
「TAKEOFF」と違うのは、「TAKEOFF」の人物は皆自分がどこかダメだと思っていながらもなんだかんだで身体はOK!己の得意分野でもってさくさくと動けてしまう人々。ところが「ロールシャッハ」の人物は、自分の内面に抱えた問題が鼻先にこびりついて、そのせいで技術や理論はあるくせに自分を動けなくさせてしまっている人々、あるいは‘天性の特技’ではなく‘好き’なことばかりやりたがっている人々(そのために指揮官が必要)。ざっくりした印象ではそんな違いでしょうか。
それぞれ違う個性がひとつの目標に向かって悩み、解決していく、という点ではこの2つの作品は似ているような気がします。出演者も同じだから余計に似て見えるのかも。
「TAKEOFF」は動ける人々の話だったので、物語の展開もテンポがよく、なんだ、あんたたち技術あるじゃん、悩むことなくどこの世界でも生きていけるじゃん、ていう、爽やかな結末を迎えることができました。たった3人にとってしか意味のなかった飛行機を飛ばすという目標も、最終的には観客にも大いなる意味となって飛んでいったように思えます。
今回は、その手前で動きたくても動けない、もっと更に内面に問題を抱え込んだ人たちの話だったのかなと思います。
鏡に向かってあれこれ考えるという姿勢は、自分のことって自分ではよくわからないのが人の常、曲がった自己評価への道を登場人物たちに与えてしまう結果となる。一人一人の悩みが指揮官の指摘でもってクリアになって行き、悩む方向を修正してもらい、果てはみんなでもってもっと大きな鏡との対峙へと話は膨らんでいく。世界の果ての鏡とは、結局はみんなが見ている個人的な鏡と同じものなのですよね。みんなで共有することとなった‘自己’という鏡にどう対処するか・・・そんな展開なのかな、と思いました。
鏡を撃たなかったのは「正義の反対はもうひとつの正義」(でしたっけ・・・間違っていたらすみません!)というセリフに集約されるかとは思いますが、私はそれまでの物語の経過から考えると、‘自分を傷つけない’ことを意味することにもなるのかしら?とも感じました。弾が打ち込まれたのは真上=外の世界、と考えると自分的にすっきりとするのですが、いかがなものでしょう。
で、‘自分を傷つけない’ように物事を解決した、でもめでたしとなる、のではあるのですが・・・
1度目の観劇でも感じたのですが、今回も、ちょっと「?」な感じで観終えることとなり。
2度目の観劇で、何が「?」なのかわかりました。
弾を真上に撃ち上げた後、すぐさまみんなが爽やかな顔になる。達成感満々な表情になる。
・・・何故?
なんで真上に打っただけで彼らは爽やかな顔になり、そのままエンディングを迎えるの?
何故?と思う自分も何故?という疑問が観終わった後、心にひっかかっています。
いや勿論お話の内容で、壁に穴を開けなければミサイルが撃ち込めないからそれを阻止した、作戦成功、という爽やかさと達成感、そして、指揮官は自分に正直になって曲芸師になる、という清々しさ、ということであることはわかるのですよ。
でも、それだけで終わっていいのか、この話・・・
何故こんなことを考えたのかというと、開拓隊が発見したかもしれない‘鏡の向こうにいるかもしれない他者’がそこに存在すること前提で物語は進んでいったわけで。で、勿論主のテーマは自分の内面との戦いや調和であることはわかっているのですが、「TAKEOFF」とは違って折角自分たちに対峙してくれる他者を設けたのに、最終的にはこちら側(ミサイルを撃つ撃たないの問題だけ)の話で終わってしまったことに物足りなさを感じているのかもしれません。あちら側にもし同じような悩みを抱えている人がいることが具体的にわかったら・・・ただ、撃ってこなかった~っていう想像の話で終わるのではなく、その存在を具体的に明らかにすることで再度己の中に存在する自分とわかりあえる大きなきっかけになるかもしれない。そのきっかけにより観客の中に平行して流れている内なる世界と外の世界がクロスして、それが現実の社会における自分の存在と重ねてイメージできるかもしれない。(世界ってのはこの合わせ鏡を持つ無数の人々の集合体であるわけですものね)具体的に向こうの世界を示すとなると物語の組立てがまた変わったものにならないといけないのかもですが。
発砲の瞬間にホリゾント(舞台奥)のスクリーンに彼らと同じ影が映るのですが、あれがもし、なんらかの原因で、こちら側の彼らに見え、具体的に‘ああ、向こう側も撃たなかった’ということが理解できた、という設定なら腑に落ちたかな。爽やかな表情の前に驚きの表情ひとつあれば、そっか、って思えたのかな。そして、今後いかに開拓隊にミサイルを打ち込ませないか、つまりは個人や世界の平和は攻撃ではなく別の方法でこうすればいい、なんてことについて誰かがひとことでも口にすれば、ああ彼らは壁ではない別の方向である‘先’に進むんだな、って思えたのかしら。
仲間というまず最初の他者との出会いを潜り抜け、大砲を撃つという同じ目的に向かって協力できるようになった壁際作戦のメンバーたち。そこから更にまた他者と向かい合う、そんな構図をもうひとつ潜り抜ければ、未来へ向かう様子が感じ取れたのかも。
すみません!完璧に自分本位、自分が気持ちいいエンディングの模索になってしまいましたね。
なんだか今回、タイトルイメージから、そして改めて演劇作品と銘うたれたことにより、「ロールシャッハ」への期待度がいつも以上に高くなってしまい。二重三重四重の意味で凄い心理世界へと誘われるのかな~なんて勝手に想像してしまい。(そういう意味では「トライアンフ」もタイトルと前情報で勝手に振り回された感あり。イリュージョン見せてくれるの?なんて)
だからもうちょい複雑なものも見せて欲しいという、欲が出たのかも。
でも、例えば‘嫌いなものじゃなく好きなものを探していこう’など、作者が観客に伝えたいメッセージはちゃんと受け止めてきましたよ(嫌いってただ言うばっかりだと未来は無いもんね。嫌いなものも食べないと先へは進まないのも現実だが)。
乱暴なことを言ってしまうと、パーセントマンの部分を無くして、もっと他者との対峙の部分のドラマを膨らませてもらって2時間くらいの話にしてもらえたら満足したかも。超内面的な問題と他人や世界の中で上手く動けない葛藤とを同じ土俵の上に乗せて試行錯誤する、みたいな。
でもね、あのパーセントマンや大道芸があってこそのKKPでもあるのですよね。この辺が複雑な想い。
でもまあ、観た後にあれこれ考えてみたくなる芝居というのは良いものです。
他の方の感想を拝見すると観た人の数だけ解釈がありそうで、そういう意味では見ごたえのある作品だったのではないかと思います。
今回もまったく上手く言えてないな・・・
ぐだぐだ長い感想、お読み頂きありがとうございました;