2011/5/1(日)13:00開演 於:新国立劇場 小劇場
<JAPAN MEETS・・・ ─現代劇の系譜をひもとく─ >シリーズⅣ
演劇好きとしては避けて通れない(?)ゴドー待ち。
いつか舞台で実際観てみたいと思っていた作品です。
戯曲を1冊持っているのですが、文字だけだとどうにもスムーズに読み進めることもできず読了しないまま放置・・・
今回劇場でちゃんと観ることができて良かったです。
劇場内に入ってまずは舞台設定に興味津々。私はバルコニー席を選んだのですが、上から見下ろすと1階フロア、長方形の長い縦の真ん中が端から端まで貫かれた状態で舞台が設置されています。1階席はその舞台を両側から挟む形で2箇所にあり、2方向から舞台が鑑賞される形となっています。バルコニーはぐるり全方向どこからでも舞台がよく見える。テニスコートを観戦しているような趣きでした。この横に長い舞台は当然‘道’として作られていることが想像できます。夜が来て、月明かりのシーンになると、トンネル状になっている舞台端(役者がはけていく袖)に光の筋が差し込んで、そこに遠近感が生まれ、闇の向こうに延々と続く暗い道を暗示させるような空間演出がステキでした。
まるで自分も登場人物たちと共に道の上で途方に暮れて佇み続けているかのような錯覚を覚えることができ、良い劇体験の場でありました。
さて、「ゴドーを待ちながら」は不条理劇ということで。
よく聞くけれど、不条理劇って実際どういう劇?
辞書を引いてみました。
<条理=物事のそうなければならないわけがら。筋道>
<不条理=事柄の筋道が立たないこと>
つまり筋道の通らない世界での物語、ということですか。
今回観て改めて、「ゴドー」の世界には‘時計によって規律された時間’あるいは‘カレンダー通りに進む日にち’という筋道が無いということがわかりました。でも自然界はきちんと動いています。中々やってこないが夜はちゃんと来る。荒涼とした風景の中では植物を揺らす風が吹く。自然はそのまま動いている中、‘人間が人間のために人工的に作った時間’という仕組みだけが成り立っていないという世界。つまらないことかもしれませんが、そんな物語の構造にちょっと興味を覚えました。
ここに「ゴドー」は全くの荒唐無稽話ではないという自分なりの合点を見出しました。(勿論これは私の全く勝手な合点です)
時刻やカレンダーとは、我々がそこに乗っかれば普通の人間として安心して生きていけるための装置のような気がします。その人工的な筋道がもし無くなったら。‘流れ’が無い世界には浄化がない。浮き彫りにしたくない感情や記憶が流されて消えることなくいつまでもそこに漂い、発酵し、爆発するかもしれません。あるいは起爆になる流れが来ないお陰で爆発もできず、ただ凍りついているだけの想いを反復することになるのかもしれません。
時刻という流れを失った世界では、消え去ることを赦されなくなった事柄たちが足を止められ、必要以上に晒されることとなる、ということではないでしょうか。
「ゴドー」が実際何を表現したいのか、何を伝えたいのか、それを理解するのは1回の観劇といくつかの評論だけでは皆目理解することはできません。
しかし、この人工的な時間軸を失わせることで、何かを浮き彫りにさせたいのだな、という仮想をすることができそうな気がします。
何故同じ場所でゴドーを待ち続けなければならないのか。(いままでゴドーとは何を表しているのか?ということに気が行っていましたが、観劇後は何故待つのか?に変化しました)
何故ヴラジミールとエストラゴンは離れることができないのか。
それぞれの吐くセリフが持つ意味とは?
「ゴドー」は観る人が自由に解釈すればいいお芝居だと思いますので、正解を探すというよりはむしろ「ゴドー」をきっけかに想像の枝を自由に伸ばすという楽しみ方をすればいいのだと思っています。
今回の戯曲を購入しましたので、今度は文字で読んでみて、何が自分の中に湧くかな、というのを試してみたいと思います。
パンフレットの解説を読んで改めて思ったこと。
ヴラジミールとエストラゴンは‘オプチミストとペシミスト’なのかなということ。
ヴラジミール:前・先へ向かう、希望を持つ、外へ目を向ける
エストラゴン:死へ向かう、孤独、内向
そしてこの二人は別々の人間ではなく、一人の人物の内面なのではないかという想像をしました。自分の中の二面性。陰と陽のような。自分の中にある、離れたくても離れられない存在。どちらが主の自分かはわからない。主はその時々で交互に替わっていくであろう。
それからこの物語の人物たちにとって良い‘終わり’とは何だろう、という想像。
うんざりする待ち時間が断たれること?それは死?誰かによって救い上げられる瞬間?では救いとは何?
・・・想像もぽつんぽつん、脈絡なく、様々な想いが、「ゴドー」に触れる度、湧き起こってくるかもしれません。
このお芝居は戦争という人間界で最も不条理なものがベースになっているかもしれないとのこと。
それを含めると、更に想像の世界は範囲を広く取らなくてはなりません。
考えろと言われて堰を切ったようにしゃべり出すラッキーの長セリフの意味も気になります。(石井愃一さん凄かった!)
橋爪さん、石倉さんというコンビは始めて「ゴドー」を観るには入りやすいキャストだったと思います。
このコンビのせいか、結構客席笑いが起きて、ああ本当に自由に観て良い芝居なんだな、ということもわかりました。
人生始めての「ゴドーを待ちながら」。
観ておいて良かったです!