BS録画しておいた「敬愛なるベートーヴェン」を観た。
芸術家のパッションを、その人の持つ痛み諸共感じられるような作品であった。
天才は燃え尽きる炎だ。残酷なようだが凡人は、そんな天才の炎が燃え盛り、燃え尽きるまでを、震えをもって堪能する。天才にとって、身を焦がす人生は苦痛であろうが、そのために生まれてきたのであるから、それを喜びと呼んでもいいのではないか、そう凡人は思ってしまう。
天才は神が遣わした存在。だから神と共に生き、役目が終われば神の元へ帰る。(夭折する才人は早めに役目を終えた人、と私は思っている)
アンナの恋人が作った橋の模型をベートーヴェンがぶち壊すシーンにはびっくりしたが、その後ベートーヴェンからの、あの橋が本当に良いと思ったか、の問いに、いいえ、と答えたアンナの吹っ切れた笑顔が良かった。
アンナは彼の作品を、彼の未来のために褒めたのであって、心から素晴らしいと思ったのではない。それは愛する人への、割り切った上での思いやりの賞賛。そこを突かれて、思わず正直に微笑んでしまったアンナ。
とても印象に残ったシーンである。
第九の初演、その演奏が終わっても、客席に背を向けたベートーヴェンは客の大喝采に気づかず、アンナに促されて後ろを向き、初めてその光景を知る、というシーンには涙が滲んだ。
彼は自らの音楽を聴くことができないばかりか、観客の拍手をも聴くことができないのだ。神は彼の脳内に音楽だけを与え、あとは奪うだけ奪っていったのであろうか。客の反応を耳にすることができない寂しさは想像に余りある。
アンナという架空の人物設定は、ベートーヴェンが心を開いていく時間の経過において、聖母のような存在感も漂わせてくる。物語の中で、アンナはベートーヴェンにとって、弟子、同士、聖母、様々な存在に変化し、ベートーヴェンの内なる神を引き出し、共有していく。ベートーヴェンの全てから決して目をそらさないアンナの姿勢が素晴らしい。
ベートーヴェンの下では嘘の思いやりを許さない、そんな甘さのない脚本・演出が、非常に気持ち良かった。
今年の映画鑑賞第一弾は中々良かった。
ちなみに去年の大晦日には「王子と踊子」を観た。母と観たのだが、観終わって母が「思い出した、これ昔、確か駄作って言われてたやつよ」だって。
確かにね~。嫌いじゃないけれどね。