2012/4/29(日)14:00開演 於:水天宮ピット大スタジオ
観たかった「THE BEE」観てきました。
(原作は筒井康隆『毟りあい』)
遅ればせながら感想です。
いやしかし、Japanese Version観たらEnglish Versionが激しく観たくなりました。映像でもいいから観たいです。
戯曲を読みながらなので長くてくどい文章になってしまいました。お付き合い頂ける方のみどうぞよろしくm(_ _)m
Japanese Versionのパンフレット。冒頭の野田さんの文章「小道具礼賛」。首が痛くなるくらい縦に振って(嘘)、同意同意と心でつぶやいた。
演劇は映像と違い<見立て>によって物語を進行することができる。小道具を様々なものに見立てる。役者もその性別年齢を超えて様々な役割に見立てられる。リアルなセットがなくてもどんな世界をも構築できる。
この<見立て>の世界はファンタジーを具現化する場所としてとても適していると思うが、一方、現実の世界で向き合うには過酷で辛い話や問題を、目を背けずに見る機会とすることもできる貴重なシステムでもある、そう思う。
数年前衝撃を受け、今に至っても投げられた問いについて考え続けることとなった「キャンディード」の観劇についても、思えば見立てによればこそ直視できた世界であった。あれが映画やドラマであったら、私は途中で辛くなり観るのを止めていただろうと思う。
「THE BEE」の世界も過酷で陰惨だ。しかし<見立て>を極めた演出であればこそ、直視もできたし、直視どころか一場面一場面を逃さず凝視できた。そしてこの流れが意味するものとは?これに対して何を感じ取ればいいのか?と冷静に劇と向き合うことができたのである。
「THE BEE」に於いては例えば鉛筆が子供の指であり、その鉛筆を折り、手から離すことでそれが意味することを表す。これをリアルに見せられたのではたまったものではない。Japanese Versionでは小古呂の妻を演じるのは実際の女性だが、English Versionでは男性がその役につく。男性が女性に見立てられれば、女性に対する暴力についての問題に、もっと平らかな心で向き合うことができたかもしれない(この部分でJapanese Versionは胸が軋んだ)。
物語のテーマは報復の連鎖のようなものであるかと観る前から想像していたが、観ている内に考えの軸がそこから離れていく感覚も覚えた。
平穏な日常に唐突に切り込んできた‘脱獄犯によって自宅に妻と子が人質に取られている’という異常事態。被害者は、この後犯人によって翻弄されるというのが常套の筋、なのだが。
被害者である主人公の井戸は、いくつかのきっかけでもって、逆に犯人を翻弄させ、こちらから報復を煽る存在として犯罪の中心に君臨することになる。そうなっていく過程が、こういう言い方は不謹慎かもしれないが、面白い。
まずは、被害者という格好のエサを喜び、その泣き喚き動揺する様を期待するマスコミというバケモノの跋扈。まだ事件の全容が本人にもわかっていないのに「今のお気持ちは?」とマイクを向けられる理不尽さ。報道のための演出を要求するレポーターへの嫌悪は日常的に覚えのあること。マスコミのハイエナ具合を誇張することが井戸に動力を与えているように思える。
そこに被せて早急な解決よりもマニュアル通りの進行が大事な警察の存在。人質を助けるそのことよりも、物事には順序があると、のんびりと構えた体制への苛立ちといったものを感じさせる。頼りにならないことをここでも誇張。
そして、犯人説得という小さな望みをかけて小古呂の家に入り込んだにもかかわらず、小古呂の妻に邪険にされ、説得する警官と小古呂の妻との口汚い罵り合いを聞かされたことが希望を断つ最後のきっかけだろうか。警官を殴り倒したことから暴力は始まる。
ここでふと思ったこと。それは、大学で弁論部の部長であったという井戸ではあるが、現在は冴えないサラリーマンをしているという状況から、もしかしたら相手を負かす程の弁論の才能は実際にはなかったのかもしれないと想像。そんな彼が言葉ではなく実際の暴力で相手を押さえつける快感を得た瞬間の震えときたら、それは殊更に大きいものであったのではないか、そんな想像もできた。力で制することを覚えてしまった瞬間、快感を得てしまった瞬間。
それから小古呂家に立てこもり、井戸が自らスタートさせた‘交渉’の流れの中での暴力が始まると、やはり思考はいまだ世界のどこかで続けられている戦争・紛争へと重ねられていく。
武器による圧力、女性への乱暴、犠牲になる子供。暴力で支配される世界でいかに生き延びるか、どこに身を置けばいいのか、恐怖に凍りながらも女性は考え、子供はただ身を任せるしかない。暴力を振るう方も振るわれる方も、繰り返される度にそれが日常となり、食事や就寝と同じ流れの中のこととなり、加害者は残酷さに鈍感になり、被害者は諦観の境地にまで落とされていく。芝居ではこの繰り返しがほんの小1時間のことではあるが、これを何年、何十年という期間での出来事と想像したらどうだろうか。その長い期間で行われているであろうことを、芝居においては無駄な動きを無くして、朝の支度・食事・報復行為・就寝・目覚め・朝の支度・・・とシンプルな<形>の何度かの繰り返しの所作で見せていく。静寂の中に<形>として閉じ込めらた音なき暴力と声なき悲鳴。この時間の経過の見せ方が怖い。暴力・報復が普段の生活と同じレベルで、温度で、淡々と流されていく怖さ。今感じているこの恐怖の感覚こそが、戦争・紛争地帯での実際の被害者の日常なのではないかと、じわじわリアルに想像することができたのである。或いは、戦争・紛争地帯での出来事のみだけでなく、どこかの家庭内でも起こっているかもしれない日常の過酷さなども。(家族病理というキーワードが思い浮かんだ、ということだけ記す)
やったことがそのままやり返される、そんな報復の連鎖に終わりはあるのだろうか、これは劇なので終わりを設けなければならない、ならばどう終わらせるのだろうか、そう思っていたら。
小古呂の子供が死に、妻が死に、残るは井戸が自分の身体を捧げるだけとなった状況で、それまで舞台に敷かれ、背景ともなっていた大きな一枚の紙がくしゃくしゃっと端から折られていき、倒れた母子、ちゃぶ台、生活用品、更に井戸までをくしゃくしゃと覆い、包んでいき、最後にはひとつの紙くずの塊、まるでゴミのようにされ、ぽんと舞台の上に残された・・・それがこの劇の終わりなのであった。
そうか、この話に着地点はないのだ、舞台上の大きな紙くずを眺めて、思った。
着地点のない営みが‘報復’である。やってやり返して、やがて誰もいなくなるのが、連綿と続く報復の末路である、私はこの終わり方をそう見て納得した。
深刻な問題がひとつ目の前にあったとして、それについて考えることの前に、現実自分がその当事者になったら一体何を体感するのか、それを今回の観劇は感じさせてくれたとしみじみ感じている。
恐怖や痛みは、体感しない者が語ってしまうとフィクションやファンタジーに転じてしまいがちかと思われる。
例えば去年の大震災についても、被災者以外の人間が何かを語る上で、当事者が体感したことを想像しようともせずに語る人のなんと多いこと。
演劇の役割とは、<見立て>という触りやすい世界の中で、何かをリアルに体感させることでもある、それを強く感じた観劇であった。
「THE BEE」生の舞台を観られてよかったと心から思う。
追記:そうそう、ネットの世界では「蜂」を追い払うのに躍起になっている人々を見る。向けられるエネルギーの方向が違うのではないかと、その度に思う。