2007/11/19(月)19:00開演 於:東京グローブ座
めっきり冬めいてきた東京。
グローブ座の1階座席に座って改めて思ったこの劇場の底冷え。
グローブ座は、なんというか「がらん」とした劇場空間です。
足元が冷える。暖かい劇場の中にいるというよりは、屋外にいる感覚を思わせられるような場所です。それが今回の芝居には合っていたのではないかと思います。「欲望」という名の電車に乗って「墓場」という電車に乗り換え、「天国」という名の通りへ。ブランチと共にたどり着いた場所での出来事についての感想文です。
私の席はF列目の下手寄り。縦に舞台へと通じる通路側の席。少し前のC列とD列の間には1階席を横切る通路。好条件の位置において、客席の通路をアパートの表通りとして使う役者さんが右往左往する様を傍で見ることができ、より芝居空間の中に入り込めたのでとても良かったです。
私の左横の道を通ってブランチ(篠井英介)が静かにアパートに近づいてゆく。彼女がアパートを去る時も医師(鈴木慶一)にエスコートされて同じ道をゆっくり歩いてゆきます。
舞台上にはニューオリンズの猥雑な町の中にあるボロボロのアパート。
ブランチが耳をふさぎ、彼女の神経を逆撫でる、アパートの近くを通る電車の轟音が、私たちの頭の上を、私たち観客の神経をも逆撫でしそうな音量で、たっぷりと時間をかけて走り抜けて行く。その音の体感が素晴らしかった。音響の仕事は凄いなあ!とこういう体験をする度に思うのです。
簡素だけれど必要なものはちゃんとある舞台セット。舞台奥のビルの書割。客席を表(おもて)とする空間。音響。臨場感たっぷりの劇空間で複雑な人間模様を観察し、心を震わされた。良い体験でした。
パンフレットの中で篠井さんが、「3時間の芝居の中で自分のことがずっとおじさんにしか見えない人もいるかもしれない」とおっしゃっているくだりがありますが、篠井さんが作りこみ、演じ上げる姿は、男とか女とかは関係なく、ある解釈の上に成り立つひとりの「ブランチ」であったと思います。むしろ女方の人が演じるのですから、より「女性」が誇張され、「女であるが故の心情」がより浮き上がって見えるという場面もありました。
実際はどんなに身を落としていても、自分は上流階級の人間であるというプライドや、身に染み付いてしまった品格がありながらも高慢という態度は、実際の女優さんでも、ただ女であればいいというものではなく、研究し、会得した人でなければ出せるものではないと思います。それを篠井さんからは充分感じることができたので、そこに「ブランチが存在している」という感覚を私は感じ取ることができたのだと思います。
ブランチへの同情と、時には嫌悪と。妹ステラ(小島聖)への共感と理解不能な思いと。スタンリー(北村有起哉)への憎しみと同情と。登場人物たちも複雑であろうが、観ている者の気持ちも複雑に掻き混ぜられるこの物語。一度でなく何度でも観て確認したくなる、実に興味深い作品だと思います。
買ってあった映画のDVDをこの観劇の後に見ました。
この物語に関しては、改めて映画の話と絡めながら、考えてみたいと思います。
年配で(30過ぎっていう設定だけど・・・)独り身で、失ったものが多く、またその失い方が辛かったブランチの痛み。その一部ではあるけれども、私にもその痛みの一部が物凄く痛く突き刺さった。キャストが互いに真剣に遣り合う様が観客の中に眠るものをきっと引き摺り出すきっかけとなったことと思います。
ひとつ驚いたことがあります。念願の篠井さんの舞台を拝見した翌日。デフォルメされた女方の身のこなしに惚れ惚れしたせいでしょうか。ふとした時に自分の手に「女」を見たのです。私は普段がさつで、女性らしさに欠ける奴。でもふとした瞬間の自分の手に女を感じた。意識させられました。びっくりしました。宝塚の男役が「いかに男であるか」を見せるように、女方が「いかに女性であるか」を見せてくれたことの余波でしょうか。私も女なんだなあと。「女」であることがよりブランチに心惹かれる所以。これを機に「女性である自分」についても考えてみよう。
そして、テネシー・ウィリアムズの原作も読んでみようと思っています。