2011/8/13(土)19:00開演 於:シアターグリーン
すっかりファンとなってしまった虚構の劇団の舞台を観てきました。
「天使は瞳を閉じて」。第三舞台版(インターナショナル・ヴァージョン)を観たのが1992年シアター・アプル。約20年前。あの時は、なんだかぼんやり観ていたなあという感じでした。今回はセリフのひとつひとつを丁寧に拾うことができました。その分、発見もありました。
なにより20年前にはただのフィクションだったことが、今現実となってしまった・・・そのことがより劇へと意識を集中させることとなった要因のひとつだと思います。
テキストはインターナショナル・ヴァージョンを参考にしています。2011年虚構版と解釈に相違のあった場合は後に訂正致します。
なんだか感想というより妄想が暴走している感じですが;よろしければお読み下さいまし。
ネタばれあるので畳みます。
第一章、天使が登場するプロローグの部分までは、書き換えは必要だがあとはあんまり直すところがない、と虚構ブログにて鴻上さんが語っておられます。
確かに、天使が登場するあたりからはほぼ記憶通りの進行。それでも当時のままでは通じないよな、という雰囲気のセリフは今に合わせてあるところも。それでもギャグの応酬やボケは当時(私が観た)の第三舞台風味が残っていて。それが年配としては、これって今の10代20代が観たらどう感じるかしら?と若干冷や汗気味なところも(^^;)いや役者さんたちもどう感じながら演じているのかしらなんてことも思ったり。
音楽も勿論現代に合わせた音楽でした。観る前から、あの甲本ヒロトの鮮烈な声と歌詞を期待してはいけないと自分に言い聞かせていたので、ふむふむこれが今鴻上さんが使いたい歌なのだな、と素直に聴きました。
約20年前に書かれた時にはもしもの話だった。それが2011年実際に起きてしまった。ファンタジーとそうでないところの両方に足を突っ込んでの観劇でした。
ドーム型の見えない壁の内側に住む人々。壁の外は放射能によって破壊され人が住めない世界となってしまっている。それでも人は壁の外に出たがっている。その壁の内側とは、かつて原発事故により警戒区域となって人々に退避命令が出た場所。時間がうんと過ぎて、そこは逆に外の世界よりも安全な場所となっている。警戒区域に取り残されたかつての絶望が、壁を突破して向こうの世界へ旅をしたいという希望に変わっている。そしてまた結局人は・・・
まず最初に悲劇があり、更に長い時間をかけて悲劇は繰り返され、最終的にもうそこは悲劇などという表現では足りない世界に変わってしまう。透明なドームに覆われた場所は天使が言う通り奇跡の場所で、生き残った人々の生も奇跡である。でも人々は自分たちが奇跡の中にいることを知らない。知らないからその奇跡を大切に思う術もなく外へ出たがる。
― 否、もしかしたら、知っていても外に出てみたいと思う人間もいるかもしれない ―
それは鴻上さんのごあいさつを読んで、の想像かもしれませんが。
人間は現状に我慢がならない生物である、観劇中、そんなことを感じたのです。
キケンかもしれない、でも我慢がならない、あるいは、死んでもかまわない、人ってやつぁはそんなことを思いやがる生き物かもしれない、そんな考えが。勿論透明ドームの住人にはその危険がわかっていません。しかし、不安はゼロかと言えば決してそうではなかったと、登場人物たちの表情から汲み取れるような気もしました。ここから違う場所へとにかく出たい人と、ここから出ることに漠然とした不安を、あるいは何故外へ出る必要があるのかという疑問を抱えた人と、ちゃんと両方いる、とも。
世界が崩壊して、神様がいなくなってしまったかもしれないことも、人間は知らない。それでも人は神の領域を目指して、高みを目指して、それぞれの思惑の中で互いを傷つけ傷ついている。やがて人々に変化が表れる。背中に小さな羽根が生え始める。それは‘進化の始まり’であると語られる。人間の遺伝子が神に辿り着く過程の中にいると。人間の持つ遺伝子が、人間という容器を捨てて天使という容器に乗り換えると。その容器はいずれ神という名になると。
高み、神の領域、そんなところ、行けるはずもないのに、と思います。もしかしたら、人間に壁を押させたのは、見えない大きな力だったのかも、などという想像も浮かびました。人間の野望を叩き潰す、見えない大きな力。神様はいなくなったのではなく、人間を見限ったのではないか、そんな想像まで。人々には実際羽根が生えていたのです。そこに行ってはならない、そこまで手を伸ばしてはならない、そんな警告だったのではないかと。人間の欲望は果てしない。実際の私たちにも目に見えない羽根は生え始めているもかもしれない。私たちは、この欲望の暴走を抑えることを覚えなければいけない、そんなことも思います。
人間の持つ欲望は、時として良いエネルギーともなりえますが、余分な熱として自らを苦しめる鞭ともなります。
自らを苦しめ、周囲を苦しめ、決して駆け上がることのできない階段を踏み外し続け、繰り返し傷つく、そんな‘人’という光景を、天使には理解できるはずもないであろうなと思います。天使がよかれと思って導こうとしても、人は善き流れの方向に舵を取ろうとはしない。天使が自分の肩に手をかけてくれる、そんな慈愛に満ちた体感を、感じることができない、なんて哀しいんだろう。
狂気もまた、人にとってのエネルギーともなると思っています。他の生物と違い、この狂気を持った生物を見守る天使たちは、無力であっても仕方ないだろうなと思ってしまいます。
でも。
壁を破り、人々は死に絶える。しかし天使はその場を離れずにいようと言う。
実はこの最後の、天使のセリフの意味することが何であるのか、自分の中でまだよくわかっていないことなのです。
たぶん天使の瞳は、劇作家である鴻上さんの瞳でもあると、インターナショナル・ヴァージョンのテキストの中の文章で思ったのではありますが。
観客もまた、この物語を少しだけ遠くからただ見つめるだけの天使目線の仲間でもあると思っています。だから、この物語について作家さんの答えをもらうだけでなく、自らでこのセリフが繋ぐ次の物語を想像してみたいなと思いました。
次の物語があるからこそ、天使はそこに居続けるのではないのでしょうか。
この物語は結局こういうものだったと、自分の中ですとんと降りていない混沌を、そのまま文章にしてしまいました;
すみませんでした;
思ったより、後を引くお芝居でした。しばらくまだ頭の隅っこに居続けるであろう物語です。
天使1&2の配役は思った通りで嬉しいやらびっくりするやら。
小沢さんは当然、でも大杉さんはどうだろう・・・って思っていたから。
前回「アンダー・ザ・ロウズ」の時に、この人の使い方、もったいないよな・・・なんて思っていて、もっと前面に出た役で見たい!という希望もあり。なにより醸し出すものが一番テンコちゃんに近いんじゃないかなって、あくまで印象ですけれど、思っていたもので。
そしてこの人を見ると妙に元気がうつる!小野川さんのパワーが今回もびんびんとこちらに届きました。
今回は全員の役に満足したかな~すべてのキャストが前後なくひとつの線上に等しく立つ、そんな脚本でもあるのかな、などということも感じました。
もう一回観たいわ~
でも行けない。行けそうな人は当日券頑張って下さいね!